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私が風刺画を描くなら、je suis charlieな人たちを描くと思います。

フランスは日本よりも自由を尊重する国です。
それ故に信仰も思想もいろいろの国が出来上がっているのかもしれません。
信仰も思想も表現も自由です。この中で表現だけ異質です。
信仰も思想も内面的なものであり、それ自身は日常生活において滲み出ることはあっても、何らかの形で表現されなければはっきりと外側に現れてくることはありません。
表現されたものは必ず他人の目に晒されます。そして見たとおりであれ内に隠してあれ、表現者のメッセージを伝えます。
そういった性質を持っているからこそ、表現をする際にはそれが少なくとも他人の内面を軽んじないか、それくらいは考えるべきなのだと思います。
特に今回の場合は、表現を行ったのがメディアなのだから。

ところで、マネはなぜスキャンダラスだと言われるか(マネでなくとも構いませんが物議を醸した画家)を考えてみると、表現がいかに強さを持っているか感じることができると思います。
例えば、マネはプリントシールの背景のようなよくわからない空間で笛を吹いている少年の作品を描きました。
この作品は背景のよくわからない空間や、陰影のほとんどない描き方が批判の種となったそうです。
多少平面的な印象は確かに受けますが、只の人物画として処理すれば良いのでは、という気もします。
そうしなかったのは、当時の遠近法を使い、写実性のある絵画こそ素晴らしいという常識に、異論を唱えたからです。
マネとしてはそんなつもりは毛頭なかったようですが、美術界においては非常識ですし、中世を乗り越えて派閥は違えど技術的にはみんなで同じ方向を向いていた中で触れてはいけないところに触れてしまったのでしょう。
オランピアも草上の昼食も過去の作家の素晴らしい作品に因んだ構図ですが、そのモデル故に問題視されました。
今見るとたったそれだけと思っても、当時は非常に重大な出来事だったのです。
何の変哲もない絵画に見えても、それだけのメッセージを運んでいて、しかもそれがタブーに触れているなら、その界隈の人にはどれほどセンセーショナルだったか計り知れません。

さて、今回の件はフランスがもともと持っていた問題、タブーが露わになったと言えるのかもしれません。
そうであるならば、新聞社の擁護や表現の自由を主張するだけではなく、その問題と根本的に向き合い解決策を探るべきなのではないかと思います。
表現の自由を前面に出すことで、更に深い問題から目を逸らさせられているような気がしてなりません。
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自由と平等は両立しません。どちらもポジティブなイメージを持たれていますが、その内容は正反対で同時にどちらも存在することは非常に困難です。

自由には特に明るいイメージがあるかもしれません。しかし、成功するのも自由なら失敗するのも自由なのです。
自由であることは周囲とは一緒ではないということです。誰かが自分の持つ自由を使って栄光を手に入れた傍で、自分の自由を堕落するために使う人もいます。
自由ゆえに堕落した人を引き上げてくれる人はいません。そこにいることはその人の自由ですから。

反対に平等は誰もが同じ水準にいることを指します。つまりここには失敗する自由がない代わりに成功する自由もないということです。
同じ平等を共有する人々は、誰かが成功すれば自分もその恩恵を享受できます。逆に誰かの失敗に底なし沼の如く引きずりこまれることもあります。

この二つの概念は個人主義と全体主義と結びつけることができると思います。この思想を類似していると考える人は少ないでしょう。
自由と平等という一見して同じ方向を向いているように思える2つの考えですが、実はそれほど似ていないのです。
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人間と人間の間には思ってるほど大きな違いはありません。
よくサプリメントとかの広告で感じ方には個人差が有りますと注意書きがあるけども、感情について言うならばこれは全くその通りだと思います。
なにかが起こったとき、人は同じベクトルの感情を抱きます。その重さには個人差があるけれど。
だから自分が嫌なことを人にしてはいけないのでしょう。
指針としては一番手っ取り早いですから。
この基準を作るために子供は残酷性を持つのかもしれません。
そのまま大人になってしまうパターンもありますが…。
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